"感じ方は尽きることのない謎"

ラリー・フィンクとの対話

 
 
 

2018春夏コレクションのショーの直後、伝説のアメリカ人写真家が語った、共感、経験を写真に翻訳するという行為、ジル サンダーとの継続中のコラボレーション

カメラを手にするとき、ラリー・フィンクは現在という瞬間に内在する詩を探し求めています。

50年代後半に「The Beats」の写真を撮り始めて以来、自分が感じる通りに物事を捉える切実な必要性を感じてきました。フィンクの仕事は、事実に忠実であるというより、自分がどう感じるかを表現したものです。現実に足を踏み入れ、感じ、内側からつかみ取り、ありふれた日常の世界で感覚に訴えるささやかな存在を常に見張っています。

フィンクが主に求めているのは人。出身、社会的背景、信仰に関係なく、人です。不意打ちをかけ、特定し、凍結させ、その体内で脈打つエネルギーを捉える対象となる人。ジル サンダーのオフィスを歩き回るときでも、フィンクは無邪気な好奇心でいっぱいです。そのカメラは五感の延長で、遭遇するものすべてに触れ、それを味わうのです。モデルの肉体、カメラのフラッシュによって浮かび上がる彫刻的な参加者、ピュアな洋服とのコントラスト、流れるような身振り、シャープなシルエットとカット。
フィンクは70年代後半に初めて目まぐるしいファッションの分野に参入し、それ以来、いくつかの出版物のためにその秩序を記録してきました。常に独自の芸術的感性に従い、直感を信じるフィンクは、即興的な率直さとファッション界の芝居がかった趣を優雅に並置させ、ほとんどの場合は部外者――業界の慣習になじまない、それでいてその移ろいやすい精神を捉えることには長けた存在――としての立場を維持します。
その目は日常の不思議に新たな光を当て、一瞬一瞬の時にまだ完全には謳歌されていない生命を注ぎます。

あなたの最もすばらしい点は、撮影の際にご自身の次元、私的な感覚の世界に入り込んでいるように見えるところです。同意していただけますか?

すばらしい質問ですね。というのは、私が実際に試みているのは、相手の世界に――相手の身ぶりや表情など人間を描写するあらゆることを通して――入ることだからです。しかし、そうするために、ここまでの共感を伴う感じ方を得るためには、非常に内面化した方法で、出来事と人物のスペクトルを見なければなりません。私にとって共感は、相手の内側に入ること、誰にでも共通する人間性の内側に入ることで得られます。同情には関心がありませんし、部外者でいることにも興味はありません。今の質問で、矛盾に対する面白い問いが生まれました。というのは、私が自分の内側に入り込んでいるように見えると言われたからです。しかもまさにその通りです。ただし、内面化を通してのみ、外にある相手の個人的世界を実際に感じることができるのです。

私が実際に試みているのは、相手の世界に――相手の身ぶりや表情など人間を描写するあらゆることを通して――入ることです。 
  ラリー・フィンク

共感という言葉は、キャリアの初めからあなたによく結び付けられてきました。共感は写真一般に固有の性質であり、とくにあなたの仕事に備わる性質だと思いますか?

共感は写真に内在するものではありませんが、私には固有のものです。写真は複数の段階にわたる尺度です。外側から優れた仕事をする写真家がおり、しかも見事な仕事をするのですが、経験の内側に入り込む感覚は得られません。写真は、経験の物理的な存在感全体を翻訳するというより、経験になります。私にとって共感がすべてではありません。形にも興味がありますから。形は、経験を翻訳できる言語です。私がジル サンダーのために撮影したものが、単なるポニーテールの写真だということもあります。ポニーテールが表現するのは、深く心理に訴える形での共感ではなく、感覚的な共感という意味での――髪の毛が指の間を流れるのが感じられるという――共感です。若い女性のポニーテールを映したジル用の1枚の写真には、背景に男性がいます。この男性は対比を生むために非常に重要です。ただ余白があるだけなら、緊張(テンション)はまったく生まれません。緊張が物事を私的なものにするのです。これをパブリック・テンションと呼びます。私はこうしたことすべてを意識しています。

"私にとって共感がすべてではありません。形にも興味がありますから。形は、経験を翻訳できる言語です。"
ラリー・フィンク

つまり写真を撮るときは、基本的に自分の感覚に導かれて撮るけれども、構成、構図も意識しているということですね。二つのバランスはどのように取っていますか?

60年余りにわたって撮影を続け、必ずしも完全な反復ではなくとも何度も繰り返しているわけですが、翻訳のプロセスと翻訳への渇望を新鮮で現実的で不可欠なものに保てるのはなぜですか?本当に苦労することは、つかの間の感覚や一瞬の感情と確実につながること。何が息づいているのかを見極め、できる限り人間味をもって、もう一人の人間を感じ取ることです。ジルと発表したもう一枚の写真は、楕円を思わせる洋服で非常に形が美しいものでした。宗教的な象徴性がある気がしました。修道服のようにね。それは感じた後から思ったことです。私はただ、近づき、その形を私にとって生きたものとして消化できるかどうかを確かめようとしました。しかし、それが後になって、それも見るたびにそんな奇妙な宗教性をおびるようになったのです。つまり、感じ方は尽きることのない謎なのです。

その謎を明かしていくことはご自分の本質だと思いますか?ご自分には、物事をそのように感じられる特別な感受性があると思われますか?そうですね、偉そうかもしれないけれど……(笑)

私の意見を言ってもよいでしょうか?

どうぞ。

特別な感受性を持っている人もいれば、そうでない人もいると思います。そう思いませんか?

思います。しかし、教育などを通して、ありきたりではない人生を送るよう促すことはできます。そういう人たちが写真や絵画など何かを創造できるようになる、という意味ではなくて……つまり、私は大したことのない作家ですが、向上しようと努めているわけです。

それは同意しかねますね。あなたの書くものは詩的ですよ。

今夏、自分が書いたものを読んだのですが、その大部分が気に入りませんでした。一方、写真の場合、私には何か天性のものがあって、その才を解放しようと自らを律することに努めてきたのは、世の中が関心を持ってくれた時にその才能を見せることができるようにするためです。関連するアイデアをいくつか集めてそれを一つにまとめるという点で、私は作家ではなく写真家なのです。小説の連続性を実現できる自制心はなく、簡潔なものの方が向いています。

簡潔さは、ジル サンダーという本質、純粋、率直さを重視してきたブランドにぴったりです。ジルのために撮影を行う際、ブランドの伝統や美学、それが表現するものを意識していますか?それとも、直感に従って撮影するのですか?

この関係に関して一番驚いたのは、ジル サンダーからブランドを意識して仕事をするように言われないことです。彼らは、私の感じ方が全体の仕上がりを左右するという事実をよく理解していますが、それよりも、私の解釈が彼らの希望――聞かされていませんが――通りになるだろうと全幅の信頼を置いてくれています。興味があるのはプログラムボードの写真、髪の毛、さまざまなアティチュード、感情の高ぶり、コケティッシュなところなど。そうしたすべてに興味があります。私たち――ジル サンダーと私とすべて――は大がかりなダンスを一緒に踊っているのです。

ほぼ10年ぶりに再び舞台裏を撮影するのはどんな気分でしたか?ファッション業界の仕事は記憶にあったものと同じですか?

地元アメリカにいるときはあまりファッションに興味はないのですが、ジル サンダーのショーの舞台裏で仕事をしたときは、率直に言って楽しかったです!いくつか、特に私の目を引いたものがありました。マクラメを見てユダヤ人の祈りのショールを思い出しましたし、ショーの第一部では1910-20年代に鉄道で働いていた鎖につながれた囚人や奴隷が思い浮かびました。また、その後の音楽には中国的または日本的ともいえる神秘的な響きがありました。音楽において大量の文化的流入があったわけです。それは洋服に起こっていたこととも大いに関係がありました。実に見事でした。

そうした場に居合わせることができるのはすばらしいですね。どのようにしたら、毎回、本質を突くことができるのですか?どんな小さなディテールも見逃さず、あらゆるものを感じ取っていますね。

それ以外のことだったら何もできないと思いますよ!子供の頃は感じやすさが問題になることもありました。自分はおかしいと思っていたので……。今なら、私はおかしいとわかっているので、問題ありません!(笑)時間とともに、自分の感受性を活かして生計を立てられるようになりました。広告の仕事をしていた10年間でさえ、現在ほど感じやすくなかったかもしれません。

そして今、現場に戻ったわけですね。

やる気に満ちたなつかしい自分自身に立ち返っています